2/23/2013

縄文海進と古神道、神社、天皇制

天皇制と書いているからといって、イデオロギーの話しじゃありません。宗教とか政体とか建築物の位置なるものは、地球の気候に左右されるというお話です。
要約すると、
  • 神道の起源は、天皇家が日本に来た弥生時代よりもずっと古い。
  • 天皇家が神道に結びつけられるのは、天皇家よりも古くからある神道(山岳信仰、怨霊信仰)を簒奪・憑依したものであり、天皇家が神道を創設したわけではない。
  • 現存する神社のほとんどは、天皇家とは縁もゆかりもないものである。
  • 古代において神社を総覧した天皇家は、中世・近世においてその力を失ったわけであるが、それが慶応4年から再度その力を盛り返したのであり、中世、近世も含めて天皇家が神社を総覧したわけではなく、断絶している。国家神道という概念も慶応4年からはじまった新しい概念である。
など、まだ整理していませんが、ここら当たりをつらつらと述べてみたい。しかし、もちろん、私はいち技術者で、日本史の専門家でも宗教の専門家でもありませんので、間違いがありましたらご指摘下さい。
天皇制批判をするわけではありません。我々の意識として、いつもくっついていて離れない、神道と天皇、或いは天皇制というものが、本当は別物であるということを述べてみたいだけです。
たった千数百年か二千数百年かわかりませんが、朝鮮或いはツングースから来た天皇家が神道を創設したのではなく、神道というのは縄文時代からあり、弥生時代に受け継がれて、今日に至っている日本民族独自の宗教形態であり、大陸から来た天皇家はそれを簒奪・憑依しただけであることを述べてみたいのです。
それから、神道というと、神社であり、鳥居などの道具が揃っていると勘違いしがちですが、鳥居などというものは、後世付け加えられただけで、それらの神社らしき道具立てが揃う何百年、何千年前から、その場所の由来で、雰囲気で、そこが崇拝されていたということが多い。神社と言っても、神社の道具立てを述べるわけではありません。その起源を述べていきたいと思います。

【自然神と人神】

現在の神社に祀られているのは、自然神と、人が逝って神になった人神です。しかし、人神というのは、どうも弥生時代以降、とりわけ天皇家が神社組織を簒奪・憑依した後に人とこじつけられたような気がします。まだ、気がする、だけでなんの証明にもなっていません。
さて、神社を考えるのに、まず自然神として考えたい。自然神として考えるためには、何故そこの場所が敬われる、或いは恐れられる場所だった(過去形ですよ、過去形)のか?を考えないといけないと思います。
例えば、富士山は、現在の形の富士山になったのは近世の事です。富士山は、40~50万年前の小御岳火山、2~8万年前の古富士火山、そして1万年前に形成された新富士火山の3世代にわたる噴火活動によって現在の円すい形を形づくってきました。新富士火山も、江戸時代の1707年(宝永4年)に爆発的な大噴火をして宝永火口をつくり、東側に火山灰による広大な火山荒原を形成して現在の形になったわけです。縄文時代・弥生時代の人間が見た富士山は、現在とは違った物でした。
私たちは、現在自分たちが見ている地形、海抜で、古代の建造物の地理を考えがちです。ところが、現在私たちが見ている地形、海抜は、完新世(沖積世)の最終氷河期の後何度も変わっています。
1万4600万年前、北海道は樺太と陸続きでしたし、本州・四国・九州は一つの大きな島でした。1万600年前頃、本州・四国・九州が分離し、北海道も樺太と離れてほぼ今の日本列島の形になりました。8900年前頃も同じくで、多少現在の日本よりは大きかったのです。
これらの日本の面積の変遷は、地殻変動とあまり関係はありません。海水面の上下動に関係があります。つまり、氷河期に形成された膨大な量の氷河が溶けて、溶けた水が海水面を押し上げたのと、氷河によって圧迫されていた地殻がバウンドして、あるところでは押し上げられ、あるところでは押し下げられたわけです。しかし、日本列島の場合は、地殻の動きとはあまり関係がなく、ほとんど海水面の上昇に由来して面積が変わっています。

【縄文海進】

8900年前から現在までで、現在よりも日本の面積が小さくなった時期がありました。その時期を縄文海進と呼びます。6000~7000年前の事です。BC60世紀から70世紀の間ですね。この頃の世界は現在よりも温暖化が激しく、平均温度も現在よりも数度高かったのです。
縄文時代の海岸線と大和武尊・神武天皇の東征経路の関連、古事記・日本書紀の地名と海岸線の関連
日本第四紀学会
Q:縄文海進の原因について。日本史教科書には温暖化で氷河が溶けたためとあるのですが、氷河は主因ですか。
A:
この日本史教科書の記述は、ある意味では正しいと言えますが、十分な説明がないと誤解を与える表現とも言えるかもしれません。 その理由は以下の通りです。
「縄文海進」とは、約7000年前ころ(縄文時代に含まれる)に、現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、 日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入した現象をさします。 この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られました。その後海面は現在の高さまで低下し、 かつての入り江は堆積物で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な沖積平野を作りました。 この海進の現象は日本では東京の有楽町で最初に調べられたこともあり、地質学的には「有楽町海進」、 あるいは「完新世海進」とか「後氷期海進」などと呼ばれています。花粉化石や貝化石の研究に基づくと、 「縄文海進」の時期の日本列島は、今よりも数℃以上気温、水温が温暖な時期であったことも推定されています。


過去の地球の歴史を研究すると、何度も海面が大きく上昇や下降(面的には海進や海退)する時期があったことが知られています。 この現象をもたらす原因はいくつかありますが、その主要なものは、 極域の陸上に存在する巨大な氷の塊である氷床の融解や拡大によって、海水の体積が増減することに由来します。
そのようなことを知ると、"日本が温暖であった「縄文海進」の時代には、 極域に存在する氷床が約7000年前ころに融解したために海面が上昇し、 その後寒冷化すると再び氷床が拡大して海面が低下した"と考えられがちですが、「縄文海進」の原因として、 この考え方は正しいとは言えません。「縄文海進」の正しい原因を考えるヒントは、 かつて北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸に存在した氷床が残した地形と世界中の海岸の地形の分布に隠されています。
最終氷期と呼ばれる今から約10000年以上前の時代には、 北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸の北部には現在の南極氷床の規模にも匹敵する厚さ数千メートルにも達する巨大な氷床が存在していました。 これらの氷床は、約19000年前に最大に達し、それ以降急激に融解し、約7000年前までには、ほぼ完全に融けきってしまったことが、 氷河の後退過程で削剥・運搬されて残された地形や堆積物の研究からわかっています。 ところが、約7000年前以降に、海面を数メートルも低下させるような氷床の再拡大を示す地形の証拠は確認されていません。
この北半球の巨大な氷床の融解に伴って、約19000年前以降、氷床から遠く離れた場所では、 海面は年間で1~2センチメートルというものすごい速さをもって100メートル以上も上昇し、 ちょうど約7000年前までには海面が一番高くなりました。これが「縄文海進」の原因です。 しかし、その後起こった海退の原因は、氷床が再拡大したためではなく、その後、氷床融解による海水量が増大したことによって、 その海水の重みで海洋底が遅れてゆっくりと沈降した結果、見かけ上、海面が下がって見えることによります。 これが約7000年前の「縄文海進」の背景にある地球規模の出来事です。
こういう目で改めて世界の海岸を眺めたとき、日本と同様な「縄文海進」に相当する海進は、どこでも必ず認められるものではなく、 氷床から遠く離れた地域にしか認められません。かつて巨大な氷床が存在したイギリスや北アメリカの海岸では、 「縄文海進」に相当する海進の証拠は認められていません。これは、これらの地域では重たい氷床が消失したために、 氷の荷重で押し下げられていた固体地球の表面が、海水面の上昇速度よりも速く隆起し続けてきたためです。 実際にスカンジナビア半島やハドソン湾の周辺では、今でも土地が隆起していることが観測されています。 つまり、氷床や海水量が増減して、地球上におけるそれらの配置が変化することによって、 入れ物になる器(地球表面の形)もゆっくりと形を変えるので、全体の海水量は同じように変化しても、 地球上の様々な場所ごとに海面変化(陸と海との相対的な位置関係)の歴史はそれぞれ違って見えるというわけです。
約19000年前以降に氷床が急激に融解した原因は、太陽と地球との天文学的な位置関係によって、 北半球高緯度地域にもたらされる夏期の日射量が次第に増大したためと考えられています。 しかし、北半球氷床の融解をもたらした日射量のピークの時期は約9000年前であり、 温暖であった日本の縄文海進の時期である約7000年前とは一致しません。おそらく一度融解を開始した氷床は、 日射量が低下しても氷を融解する方向に働く様々なフィードバック効果(例えば、日射をはね返す氷床表面の面積の減少など)によって、 日射量のピークである約9000年前を過ぎても融解が進行したものと考えられています。
では、日本列島は約7000年前の「縄文海進」の時代に、なぜ暖かかったのでしょうか? 最近の日本近海の海底コア堆積物の分析から、過去の黒潮の流路の変遷が復元されています。 「縄文海進」の時期には、 低緯度の北赤道海流に起源をもつ暖かい黒潮の流路の位置が日本列島に近い南岸を蛇行することなく東進して流れていたことが知られています。 そのため、この時期の日本列島は温暖な気候になっていたと考えられています。黒潮のような、 ある地域の海流の流れは、地球全体における、大気塊や海洋水塊、氷床などの配置や相互関係によって様々に変化し続け、 複雑な仕組みで地球全体の気候の変動と関わっていると考えられています。 「縄文海進」における海面の上昇時期と日本列島が温暖である時期の一致はある意味偶然であるとも言えますが、 そういう意味では、どこかに必然性が隠されているのかもしれません。
地球上の自然現象の変動には、大気や水のように比較的速く変化するもの、氷のように比較的遅く変化するもの、 固体地球のように非常にゆっくり変化するもの、といったようにそれぞれ変化の速さが違うとともに、 それぞれが存在する地理的な位置や物性によっても変化を生じさせる原因や時期は異なり、 さらにそれぞれがもっているエネルギーや物質を移動・分配する性質も異なっています。 これらの諸要素の変動の相互関係や因果関係を明らかにして、 地球全体や地域の気候がどのような原因とメカニズムで変動してきたのかを解き明かし、その成果を将来の変化の予測に役立てることは、 これからの第四紀研究の主要な課題のひとつとなっています。
地域の現象と地球規模の現象の研究や得られた事実は、自然の変動の仕組みを考える上で、車の両輪のように、 どちらも重要な意味を持っています。そのような地域と地球規模の現象の両方に関連する自然現象の例として、 「縄文海進」は非常に興味深い現象であるとも言えます。
縄文時代の人間を考える時、現在の日本列島の地図ではなく、当時の現在よりも後退した海岸線を持つ日本列島を念頭に置いて考えないといけないということです。私の実家のある神奈川県の例で述べてみましょう。
これが6千年前、縄文海進の頃の神奈川県の海岸線です。鎌倉は鶴ヶ岡八幡宮の石段の当たりが海岸線となっていました。平塚、茅ヶ崎は海底で伊勢原あたりまで海でした。川崎市の臨海部、京浜工業地帯は全て海。大森貝塚のある場所は現在でもかなり内陸ですが、6千年前は海岸だったのです。
鎌倉の旧市街地は滑川の低地に広がっています。低地は二方を山に囲まれ、南が由比ケ浜の海に面しており、鶴岡八幡宮を頂点とする、ほぼ二等辺三角形となっています。この滑川低地には砂と泥の軟弱な沖積層が積もっていて、そこには縄文海進を示す保存の良い貝化石が含まれています。
以前、八幡宮境内に県立近代美術館が建設されたとき、地下から大量の貝化石が出ました。さらに鎌倉市国宝館の資料館ができたときにも、貝化石や昔の海岸を示す地形がみつかりました。これらの情報をもとに市街地の縄文海進最盛期(六千年前)の地形を復元すると、滑川低地は内湾となっていたことが分かりました。
湾口が由比ケ浜で幅約二キロ、湾奥が鶴岡八幡宮の東方に達していました。湾奥までの長さは約三キロとなり、湾口の広いわりに奥行きの浅い開いた入り江でした。湾の最も奥が鎌倉宮付近に達し、干潟となっていて、ハマグリやシオフキ、イボキサゴなどが生息していました。
湾奥に近い鶴岡八幡宮境内では、大イチョウのある石段の下まで海が迫り、波が打ち寄せるきれいな砂浜となっていました。そこには現在の相模湾沿岸には生息していないタイワンシラトリやシオヤガイ、ヒメカニモリなど熱帯から亜熱帯の暖かい海にすむ貝が生息していました。
また、鎌倉大仏のある長谷の谷は幅の狭い入り江となり、ここにも泥層が厚く積もっていることが大仏の地下から明らかになりました。この泥層からも熱帯にすむカモノアシガキのほか、イボウミニナ、カワアイなどの貝化石がみつかっています。
縄文海進が温度上昇につれて、徐々に比例的に海面が上昇したのか、それともあるとき突然数mも海面が上昇したのかわからないことです。徐々にでしたら、海岸線に住み着いた縄文人は、海岸線の後退につれて住居を内陸へ、内陸へと移したでしょう。その時、文化も無理なく移せたでしょうが、急激な海水面の上昇、この前のインドネシア沖地震の際の津波のような出来事が起きたら、縄文人はかなりの人間が死亡したり、逃げられたとしても、文化を伝える物を持ち出せなかった可能性があります。
縄文海進が終わっても海岸線はすぐには元に戻りませんでした。現在の海岸線(もちろん江戸・明治時代以降の埋め立て地は別として)に戻るのに数千年かかっています。だから、古代の神社が現在内陸部にあるからといって、縄文・弥生時代にはその神社が内陸部ではなく、海岸沿いに創建された可能性もあるのです。
縄文海進時代、2000年前、1000年前、現在、の神奈川県の海岸線
逆に、二千年前、一千年前の海岸線は現在よりも数キロ広かったのです。今は、海退の時期、縄文海進の数千年前の時代にあると言えます。将来、天体の運行状態で縄文時代の海岸線に戻るかもしれません。それは、人類の産業活動による地球温暖化の要素よりも大きいものであるかもしれません。ただし、人類の産業活動による地球温暖化の要素が天体の運行による地球温暖化を加速しているのも事実であるのです。
これはミランコビッチ・サイクル(※)などを述べないといけませんので、次回ということで。
※木星や土星の引力による地球の公転軌道の離心率(天体の軌道の円からのずれを表す指標)や地軸の傾きの変化によって、周期的に氷期と間氷期が訪れるという理論で、夏季、大陸が多い北半球の高緯度地帯の日射量が減少すると大陸氷河(氷床)が発達する。すなわち、夏季に日射量が減少すると雪がとけず残る。雪(氷床)は太陽からの日射を反射し地球にとどまる熱エネルギーも減少する。この循環が氷河(氷床)を更に発達させ、氷河期(氷期)が生じる。
気が向けば続く....(・o・)

1 comment:

  1. すみません、言霊百神というサイトごぞんじですか?

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