ヒンズー教と仏教の原風景・現風景Ⅱ
カイバル峠、インド・アーリア民族のパンジャブへの進攻
ヒンズー教と仏教の原風景・現風景Ⅰの続編
ヒンズー教と仏教の原風景・現風景Ⅲに続く
1996年11月、1997年2月、この2回にわたって、私はパキスタンの北西部、アフガニスタン国境から程近い地図にも載っていないチャシュマという村に出張した。
そこはインダス河河岸の村で、そこから流れ出るインダス河の支流に水力発電所を設置するプロジェクトであった。
最初の出張は、シンガポールからバンコック経由でパキスタン中部パンジャブ州のラホールに降り立ち、ラホールから車でチャシュマに旅するものだった。直線距離としてはたいしてない。しかし、尾根越えで道がうねっている場所が多々ある。そして、アウトバーンやハイウェイが走っているわけではなかった。都合10時間かかってしまった。
ラホールから西北西に向かって真っ直ぐと道路が走っている。1時間、2時間走っても真っ直ぐである。私は運転手には悪いが後部座席で眠ってしまったのである。1時間経ち起きてみる。牛車や馬車が並走していたり、道路沿いの街(村)を通過したりするものの、景色は変わりなく道は真っ直ぐ。また、眠る。光景はほぼ同じである。
3時間。道は真っ直ぐのまま。しかし、牛車はとうにいなくなり、馬車も見かけなくなって、牛馬に変わりラクダが並走するようになった。植生も変わってしまい、柑橘類が転々と植わっていたりした。
やがてタール砂漠の端を突っ切るようになった。そして、カイバル峠のあるスレイマン山脈の延伸された尾根を縦断する山岳路にたどり着いた。
カイバル峠ほどではないが、急峻な山道をワインディングロードがうねっている。道幅は1.5車線程度。車輌が交差する際、崖側の車輌は道スレスレを走らないとならなかった。現在は舗装されているが、1996年頃は非舗装道路の部分が多く、時速30キロで走れれば良い方であった。
1996年でもそうであったのだから、ジンギスカンの軍団がスレイマン山脈を踏破した頃、さらには、アレキサンダー大王の軍勢がインドへ向けて進軍した頃、もっと古代、紀元前20C~15Cのインド・アーリア人がカイバル峠を越えた時は、道無き道であったであろう。さらに、牛馬に必要な水、飼い葉もこの地帯はない。紀元前20C~15Cのインド・アーリア人の馬に乗った大規模な軍団が、スレイマン山脈/カイバル峠、タール砂漠を越え、どうやってパンジャブに侵入できたのであろうか?
インド・アーリア系人種がカイバル峠を越え、タール砂漠を走破し、現代のパキスタン、パンジャブ地方に民族移動したのは事実であろう。しかし、それは、ジンギスカンやアレキサンダー大王の大軍勢と違って、紀元前20C~15Cの貧弱な軍勢の補給能力から考えるに、数百人単位の小規模な部族ごとに、数十年、百数十年をかけて、徐々に徐々に浸透していったのではないか?ジンギスカンやアレキサンダー大王の軍勢であれば、中央アジアやイラン地方の後背地が有り、補給能力も高かったであろう。しかし、アフガニスタンのバラタ族・トリツ族の後背地など、パンジャブよりもさらに貧弱なアフガニスタンの農業生産能力によっているのだ。
歴史学者は、地質学者、地理学者や考古学者と違う。現地に行かずに想像の翼をバサバサと羽ばたかせるが、牛馬には水や飼い葉が必要だ、という現実感覚などないのである。だから、平気で、以下の様な文章が書けてしまうのだ。
「アーリア人がインド亜大陸に侵入したと言われる。その経路は、カイバル峠である。そこからパンジャーブ地方へ侵入、輪戦車で先住民を征服した」
『輪戦車で先住民を征服』、輪戦車をカイバル峠越しにどう運搬したのであろうか?ギリシャ/ローマ時代でも、馬に引かせる戦車など競技会以外実用に適さなかったといわれる。カイバル峠はローマの競技場ではないのだ。
また、遊牧の歴史だが、鐙(あぶみ)が出現するまで、騎乗者は両足の大腿部で馬の胴を締め付けて乗馬していた。姿勢は不安定で、馬の激しい動きに追従するのは難しかった。特に軍事目的で馬を利用する場合、不安定な姿勢で武器を使うのは極めて困難であり、それを行うのは特殊技能であり、幼い頃からの鍛錬が必要であった。あぶみが出現するのは西暦3Cである。
輪戦車が、戦時用として兵器として活躍できる中央アジアのような平原もない水も飼い葉もないパンジャブでどうやったら侵略の道具になるのか?また、騎馬として用いられた最初の例は、ユーラシア遊牧民、特にパルティア人馬弓兵によるものだったと考えられている。
当初は馬具は存在せず、裸馬に騎乗するのが常であったが、やがて銜(はみ)鞍(くら)、鐙(あぶみ)、蹄鉄などが発明された。その中でも軍馬史上最も重要な発明はおそらく鐙であろう。これにより騎乗姿勢が安定し、馬に跨がった兵が武器を操るのが非常に容易になった。
紀元前20C~15C頃、インド・アーリア系人種がカイバル峠を越え、タール砂漠を走破し、パンジャブ地方に移動したその頃、銜(はみ)鞍(くら)、鐙(あぶみ)、蹄鉄などは未だなく、遊牧民は裸馬に乗っていたのである。
歴史学者の言うことは、現地に行かずに想像の翼をバサバサと羽ばたかせるが、現実感覚などないのである。
紀元前16C頃、アーリア人がインド亜大陸に侵入したと言われる。その経路は、カイバル峠である。そこからパンジャーブ地方へ侵入、輪戦車で先住民を征服した。宗教は自然崇拝(多神教)であったと言われる。神々への賛歌集「ヴェーダ」を成立させた。最古のヴェーダは「リグ=ヴェーダ」であった。
リグ・ヴェーダによれば、紀元前12C頃(あくまでヴェーダの記述によれば。歴史書では紀元前20C~15C)にアレイヴァ(アフガニスタンの古称)のバラタ族・トリツ族(インド・アーリア人の一部族)がカイバル峠を越えてパンジャーブ地方に進出し、先住民を征服し、移住した。
バラタ族の社会は、いくつかの部族集団によって構成されていた。部族を率いたものを「ラージャン」と称し、ラージャンの統制下で戦争などが遂行された。ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、部族の構成員からの支持を前提としており、その権力は専制的なものではなかったとされる。
バラタ族は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。また、バラタ族と先住民族のプール族の混血も進んでいった(クル族の誕生)。『リグ・ヴェーダ』において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。彼らの神々への讃歌と祭式をまとめたものがヴェーダである。司祭者バラモンがヴェーダの神々をまつり、ここにヴェーダの宗教が初期バラモン教としてインド化していった。
カイバル峠は、パキスタンの北西端に位置しており、パキスタンのペシャワールに近い。インド世界はヒマラヤ山脈、スレイマン山脈、大インド砂漠(タール砂漠)などに囲まれた地域であり、外部からの侵入は容易ではない。そのため、カイバル峠は古代より数少ない侵入路となっていた。カイバル峠を越えるとアフガニスタンのジャラーラーバードへと至る。前1500年頃、このカイバル峠を越えてアーリヤ人がパンジャーブ地方に侵入した。
カイバル峠は、シルクロードから南下してインドにむかう際の交易路としても重要な役割を果たした。そのため、交易の利権を得ようとする諸勢力がこの地の周辺をめぐって抗争を続けた。インドのイスラーム化もこのルートから侵入した勢力によって進められた。
気が向けば続けます。
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